医療的行為というものが。吸引や経管栄養、導尿、摘便など…。
私たちの活動の中で“日常的”に行われている行為が、医療的行為
というカテゴリーに存在し、その実施の周辺で議論が続いています。
もし事故したら“責任”を問われるのか?いや、それって、どんな責
任だろう?刑事?民事?道義的に?
吸引など医療的行為のうち、生活援助行為と重なる部分、つまり
医療的生活援助行為を「医療的ケア」と呼ぶらしい。その医療的ケ
アを必要とする障害者が、そのケアを医療従事者だけでなく、ヘル
パーなどにも気兼ねなく依頼し、地域生活を安心して送ることがで
きるようにという考え。
そのために、医療的ケアができる法整備なども求められています。
だが、医療的ケアを定義してしまっていいの?法整備は定義を伴い
ます。しかし、定義してしまえば、定義から外れた行為は違法とな
ってしまいます。そして、またそこで同じ議論が繰り返される…。
善意で行った行為の結果について、その責任を問わないとする
「善きサマリア人の法」はその解決のひとつと目され、私もいいので
は?と考えています。ただ、その前提としての医療的ケアの定義
は必要か否か。
重い障害を持った方々への支援で緊張する場面は、誤えんが
多い利用者さんへの食事介助。この食事行為が医療的ケアの範
囲と指摘する方は少ないでしょう。しかし、この食事介助に比べ
たら、経管栄養は何と安全で容易。なのにそれが医療的ケアと
され議論の対象となるのに対し、食事介助は…?
何をどう定義しようと、事故が起これば、刑事、民事ともに「責任」
の対象となり得ます。医師だって、医師法で守られているわけで
はありません。法整備されているはずの医療分野ですら、産科医
や小児科医の不足は勤務時間の不規則に加え、訴訟リスクの高
さも原因の一つとされています。医療的ケアを法内に収めたら、
ヘルパーは安心して、医療的ケアに従事できる??
もしできるとすれば、それはヘルパーの認識不足。事故が起こり、
“被害者側”あるいは公権力が適切な処理でないと判断すれば、
刑事、民事の対象となります。その際の、司法の判断の根拠とし
て、先ほどの「善きサマリア人の法」は有効でないか。
私たちが活動を続けるうえで、事故の際の責任を問われるのだ
とすれば、医療的ケアを避け、重度障害者の地域生活を阻害して
しまう社会を黙認してしまう責任は存在しないのか…。
医療的ヒエラルキーに縛られた思考では、様々な行為を細分
化して定義し、行動の範囲を規定してしまいます。私たちの生活
は、なだらかでやわらかく、↑に行ったり、↓に行ったり…。なぜ
定義するのかなぁ。しんどいなぁ。なぜヒエラルキーの中に入ろ
う、入ろうと多くの方が考えるのでしょうか…。(Z)